2026.04.18

タイ豆知識

120年前のバンコクでの孤軍奮闘の先に ― 安井てつの手記

タイや外国で働いていると、言葉や慣習さらには生活環境や制度の違いなどでなかなか思うように事が運ばなかったり、思わず日本と比べてしまったり、また日本と現地の板挟みとなって苦悩することが色々あるかと思います。違いを楽しむことができればいいのですが、その時々の状況や精神状態によっては、正直なところ嫌になってしまったり投げ出したくなってしまったりなんてこともあることでしょう。

雇用形態からすると、駐在員や現地採用ではなく、「お雇い外国人」ですが、今回は、約120年前に、タイ(当時の国名はシャム)で奮闘していた日本人とその手記をご紹介し、現代の私たちに重ねられる部分や、私たちのタイ/外国での仕事の参考にできることがないか、見てみたいと思います。

安井てつ女史略歴

その名は安井てつ。当時の日本女子にとって最高学府であった東京女子師範学校を卒業し、英国のケンブリッジ大学とオックスフォード大学で教育学・心理学などを学んだ才媛。日本帰国後、暫し母校で教鞭を執り、1904年から3年間、シャムの皇后女学校教育主任を務めて後に東京女子大学の創設に関わった教育者 。なお、皇后女学校は以前、タイの名門校【高校編】 名門大学に勝るとも劣らない高校とは?でご紹介したこともある、タイの名門女子校御三家の一つ。

安井てつ肖像 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

華やかな「海外派遣」の裏に秘められた「孤独」

『安井てつ伝』(青山なを著)によると、明治37年(1904年)1月24日の国民新聞で「暹羅に招聘されたる安井哲子女史は、23日午後6時30分、新橋発列車にて出発せり、横浜よりの船便に搭乗の都合なり」と報じられています。安井女史の門出は一大ニュースで、盛大に送り出された情景が目に浮かびます。しかし、彼女の内心は意気揚々としたものではなかったようです。というのも、彼女に関する研究で触れられているように、英国帰りの彼女は当時の母校では異分子。加えて敬虔なキリスト教徒であることから国賊のように見る目もありました。つまり、外向きには“期待の海外派遣”であっても、内実では組織内政治の結果としての:“つまはじき”だったのです。時は日露戦争開始直前の冬。その時代の空気に重なるような寂寞と、やり場のない無念を独り抱えていたことでしょう。彼女が、日本―シンガポール―バンコクと乗り継いだ渡航について「小舟にゆられて非常のくるしみ」と記したのには、当時の彼女が置かれた状況への心情が滲み出ています。

バンコクの夜
日々あつくて実に閉口、夜も寝室をとぢて(盗賊の恐あれば)、蚊帳の中に入ると汗がぐっしょり、ハンケチでふきふき、団扇であふぎあふぎ、苦しみつつ終に疲れてねむる様、時には我ながらかはいそう候、懐剣はあまり短くて却りて危険、私は長き鉄の棒を寝室に置きて毎夜やすみ申候……(親友宛の安井てつのシャムからの私信の一節、藤田清次著 『真の教育者像を求めて』)

クーラーがない時代、せめて夜風にでも吹かれたかったことでしょう。しかし、盗賊の心配をして部屋を閉め切り護身具となるものを側に置いて、夜な夜な安眠もあったものではなかったとは。海外留学が今とは比べ物にならないほど狭き門だった時代に、しかも女性でそのチャンスを掴んだのは並大抵のことではなく、輝かしい経歴からは、かつて女性リーダーによく用いられた「鉄の女」という比喩も頭を過りそうなものです。しかし、上記の親友に宛てた手紙には、彼女の単に一人の人間としての心細さや異国暮らしでの弱音が率直に綴られていて、時空を超えて労りたくもなります。

 

それでも貫いた「誠意」

「朝九時から三時半まで働きつづけ、それから一時間『シャム』語の稽古、その後はなほし物や、明日の予習や準備、それに家事の世話、土曜日も此通り」
「創立当時の同校生徒は、八歳より二十歳位までの貴族の令嬢で、年齢、学力、入学時期不同のため、寺子屋式に殆ど個人教授をせねばならぬ状態であつた」
(『安井てつ伝』より安井手記。以下同様)

寄宿生には年端も行かない子供もおり、安井女史が自室に招き入れて寝息を聞くまで見守ることもしばしばあったようで、自らの使命に心血を注いでいた様子が伺えます。外務省留学生として同時期にバンコクにいた山口武氏手記にも

「当初の生徒数三十余名、教授科目は小学女学校程度の普通学と、造花刺繍染色等の実習あり、勿論シャム男女教員も数名居つたが、安井女史は校長格で、万事やつて居られた」

とあり、当時の周囲から見ても奮励努力していた様子が明らかだったことが見て取れます。その甲斐あって、3年という限られた任期のうちに、ラマ5世の許可を得て、学校は現在の敷地に拡大移転し、生徒数も200名を超える規模に急成長しました。自らに厳しい彼女をして「次第に秩序も立ち、学校らしくなつた」と言わしめる成果を挙げたのです。彼女はその後、タイ側の留任を求める声を辞して、生徒たちにも惜しまれながら再度英国留学に旅立ちましたが、後年、シャム時代を振り返ってこのように述べています。

「暑さも不便も寂しさも異人種雑居も苦しさも楽しさも、之れ皆一生中の有益な経験でありました。之れに依つて足ることを知り、同情も出来忍耐力も養はれ且つ又忠実に運命に服従する覚悟もできました。」(安井哲著『久堅町にて』)

現代の私たちへ

安井女史は、気弱になることはあっても前を向き続けました。自らの状況や目の前の環境を、あるがまま受け止め、その中で最善を尽くしました。そして、彼女が立ち上げた学校は、今もチャオプラヤー川のほとりで豊かな人材を育んでいます。この120年で日タイの社会は大きく変わりましたが、人が組織の中で抱える苦悩や葛藤、異文化での心の動きには時代をこえて通じるものがあります。彼女の実績と手記は、現代の私たちを慰め、励ましてくれているような気がします。

 

<参考>

外務省HP平成29年7月14日外交史料館 特別展示「日本とタイ 国交樹立130年」II タイの近代化に貢献した日本人 概説と主な展示史料で、司法制度改革に努めた政尾藤吉と共に紹介されている。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000900.html

東京女子大学HP「大学について」の中の「創立期の人々」での紹介

https://www.twcu.ac.jp/main/about/history/founder.html

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